つくねん

ただの日記

流れる川

 

帰りの車窓から山あいに点在する家々を見ながら、

人はどこででも生活できる逞しさがあるのだなということに

えらく感じ入っていた。

元々田舎の人間なので、

延々続く山道に給水ポイントのように現れる郵便局を見るとほっとする。

郵便局はすごい、と小さい頃から思っていた。

郵便局があればそこに生活があるのだと思っていたし、

それはあながち間違いではないのだろうけれど、

もう山あいの家々に届く郵便物も随分少なくなってしまったのではないだろうか。

と、たまに廃郵便局を見ては思う。

 

こうやって、どこかへ向かっている状態とどこかから帰っている状態の時

一番気持ちが安定しているような気がする。

移動していることで、あたかも何かをやっている気分になれるからなのかもしれない。

 

街に流れる川、集落のそばを流れる川。

川というのはいいものだな、と思う。

実家も川のそばにあって、

よくひとりで河原まで散歩に行き、ぼんやりしていた。

お盆の時の河原は賑やかになるし、花火大会もそこで見た。

その川は地元の歴史を語る上でとても大切な川で、

そればかりじゃなく、子供の頃からよく遊んでいて

地元の人々は多かれ少なかれ、その川に親愛の情みたいなものを抱いていると思う。

そんなことを思いながら、片や、

こういう田舎の景色は私が捨ててきたものだなぁと思うとともに

郷里の作家について、あの人は最後まであの地元を捨てなかったんだなぁということを考えたりした。

 

京都の鴨川も素敵で好きだけれど、

高山の街中を流れる、ちょっと景色が鴨川に似た宮川も素敵な川だな、と思った。

川というのはいいなぁ。

 

川の周りでずっと人は暮らしてきて、

村を作り町を作り国を作り、文明ができて。

そして川に還っていく。

遺体や遺灰や、盆船も。

 

 

車窓から野良猫や犬を見つけると嬉しくなる。

元気でいてほしい。

人の生活も、そうやって見るととても美しく見える。

肉薄しすぎない人間の生活たち。

こちらを見送っている人、農作業をする人、犬の散歩をする人、

グラウンドで遊ぶ小学生たち。

そういう人間たちであればこれまでもずっと好きだったけれど

近すぎるとダメみたい。

他人の生活を消費するんじゃない、みんなに名前があり、背景があり、生活があるんだ。と、怒られたりするんだろうか。

そういうことはわかっているし、そういうことを時々考えもするけれど

気がおかしくなりそうになるので許してほしい。

 

昨夜の出来事について考えていた。

あの時、あの二人の世界にはあの二人だけしか存在していなかったはずだけど。

周りの数百人の観光客はすっかり消え失せて、

雪と合掌造りと、自分と相手が世界の全てだったのだろうけれど、

そこになぜか視点をよこせと言われた私は一体なんだろう?と。(もちろんただの偶然であるにせよ)

昔、人に、君には色がないんだよね。と言われたことを思い出していた。

くだらないついでに

雪で視点で色がないってくるとシモ・ヘイヘを思い出したけど、

もちろんあんなシューティングの才能はなく。

 

次はどこへ行こう。

 

食いちゅうぶならぬ出かけちゅうぶである。

 

f:id:shrikm:20190218181946j:image

もちろん白川郷そばにも川が流れていた。

白川ではなくて庄川というらしい。

 

まったく、私は一体全体何をしてるんだろう。