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つくねん

思ったことや感じたことを書きとめる場として。

思わず、誤って望んでしまう。

 

よく通る道に、ハクモクレンの木があって

最近、蕾がだんだん膨らんできている。

朝、その蕾に陽が差しているのを見て、なんて綺麗なんだろうと思う。

 

土曜日にグザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」を見てから

いろいろと考えていたけれど、

結局は"思わず、誤って望んでしまう"ことの痛切さが

しんどいのだと思った。

 

思わず、誤って望んでしまう。というのは私の好きな陰鬱詩人の言葉だけど。

 

少し前に、話す(持っている)語彙の違いについて話をしたことがある。

語彙、あるいは言語、あるいは周波数、あるいは色。

ちょっと違う言葉を話すだけで、どうしようもなく共同体から浮いてしまうこと。

 

理解できない。だけど愛している。

と母親が言うシーンに感動した人が多いようだけど。

そう言いつつ、一方で、役割から解放するという一番重い役割を背負わせようとする。

くせに、なんて、素直ではないから思ってしまう。

 

幼少期、一瞬映る空の色とか

マットレスの縁を指でなぞって、埃が舞い上がるところとか、素敵だった。

 

主人公は果たして彼以外に無関心だったかということについては、

私はそうは思えないんだけどな。

ラスト、母親の煙草を持つ右半身のカットは、主人公の眼差しだし

ああいう哀切な視線の持ち方をする人間が、他者に無関心だとは思いたくない。

でも一方で、兄弟に拳を向けられた時、傷だらけの拳に留まる視線に含まれるのは

慈悲というよりは一種の冷淡さかもしれないな、とも思う。

そういう冷淡さ(客観性)は、ああいう人たちの一等嫌うものだということを、私もよく知っている。

 

とにかく、主人公が家族という他者に無関心ではなかった、というのは

結局私の願望でしかないのかもなぁ、と思う。

 

主人公は単に

ミーイズムかつナルシシズムに溺れているどうしようもない人間なのかもしれない。

 

まあでも、彼は彼の仕方でしか生きていけないのだろうし

彼以外だって、今更、ああやってしか生きていけないだろうから。

どうしようもない隔絶があるのに、

それでも、思わず、誤って望んでしまうのだなぁと思った。

それが誤りなのかはわからないけれど、理解を、愛情を、許しを、受容を。

お互いがお互いに。

 

だって、そうせざるを得ないほど、やっぱり人は寂しいものだよな

ということも思う。

でも、最終的に、自分の寂しさは自分で引き受けるしかないのだということを思う。

 

この映画とは何の関係もない映画だけど

ショーン・ペンが「寂しさと寂しさは相性が悪い」と言っていた。

これも、その側面を描いたものだろうなと思う。

 

だけど、ドランは、それらを善的に描いていて

私は、理解はできるけれど、まだ納得できないでいる。

これは全く、個人的な思いによってですが。

 

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今朝メールを送った後で、そういうことじゃなかったのかもなと思った。

何も言えないのなら、何も言おうとしない方がいいのではないかとも思うから

変なことを言うくらいなら

返さない方が良かったのかもしれないな、とちょっと後悔したけど。

だけどやっぱり私は卑小な人間だから、

世界がどれだけ正しくても、世界の側を傷つけようとも

そんなことはどうでもよくて、なるべく、傷つかないでいてほしいと思う。

 

この映画を見終わったときに、

主人公は殴り返せば良かったのにね、と言っていたけれど。

 

世界の側に立ってきて、それで

やっぱり殴り返したいときが少なくないくらいにはあったのだろうな、

とぼーっとした頭で思った。

けれど、やっぱり私には何も言えない。

 

群像を買おうと思ったけど、なかった。