つくねん

思ったことや感じたことを書きとめる場として。

何も残らないような気がしている

 

私が何かをしても、あるいは何もしなくても

時間だけは過ぎていくし、それはとても怖く、また救いでもありますね。

 

時が解決する、というのはよく言われる言葉だけど

これは決して傷つきの渦中にいる人に、他人から言われるべき言葉ではない気がしている。

私自身は、人にこんな無責任で辛辣なことを、言いたくないなと思っている。

 

今日はとても寒くて、おまけに雨で、

また、とても辛いことの末端に出くわして、気が沈んだ。

みんなが、いろいろなものを残していく中、

私には何も残らないし、また何も残せないなという思いは常々抱くのだけど

それが確信に変わっていくような気がしている。

 

みんながそれぞれの寂しさの中を生きているんだろうなぁというのは想像に難くないけれど、

でも私のような仕方でそれが感じられているかまではわからない。(死ぬまでわからないし、死んでもわからない)

 

よく、友人と冗談で、この人生の夢オチを期待している、というのだけど

実に、心から、そう思うときがある。

目が覚めたら、これは全部夢で、ああ、これは私の本当の人生ではなかったんだ、と思えたら。

もしくは、目が覚めたら、見た夢は全て忘れてしまえていたら。

少し悲しい夢の残滓は残るかもしれないけど、

起きた先で私は、少なくともここの私ではないのだとしたら。

どんなに素晴らしいことだろうか、と想像する。

でもさぁ、きっとそれだって辛いぜ、と思う自分もいますが。

生きている限り辛いんだよね。

死んでも辛いのかもしらんけど。

でも、この夢の中でも、いいこともあるし嬉しいこともあるし。

 

人間なんて代替可能なんだよ、

私だって本当の意味で私でなければならないなんて場面はどこにもないよ、と

友人に酔って恥ずかしいことを言ってしまったことがあった。

友人は「そんなの当たり前じゃん」と一笑に付して、

それがとても良かった。

そうか、当たり前なのか。と思って。

ここで君とこうして飲んで泣き言を言う奴が私じゃなくてもそれは当たり前で、

ここで私の変な泣き言を聞いてくれるのが君じゃなくてもそれは当たり前かあ。

この点については、まだまだよくわからないけど。

 

ここまで書いていてふと思い出したのだけど、

この友人は、

10代の頃にスピッツのアルバム「フェイクファー」のCDをポータブルCDプレイヤーに1枚入れて、それだけを延々聞きながら行けるとこまで行ってみようと鈍行に乗ったはいいけど、夕方の静岡駅で心細くなって引き返した、と言うエピソードを持つ。

素敵な話だな、と思っている。

そんな物語を私に聞かせるだけで、私の中では君はもう何者かなのだよなぁと思う。

 そして人の代替不可能性はその物語に担保されるし、

人は物語の中でしか生きていけない、ということはわかってはいる。

 

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龍太郎さんが気になっている。