つくねん

思ったことや感じたことを書きとめる場として。

ごろごろ

 

誰にも会いたくない

憂鬱で仕方ないときにでも(加えて翌朝起きなきゃいけない用事があるときにでも)

やっぱり、とてこてこ行ってしまうのは

単純に、すごく好きだからなんだろうなと思う。

 

そんなこんなで昨夜もてこてこと。

 

完璧に甘やかされていると思う。

そうは問屋がおろさない、それは世間様が許さない

というようなことでも、許されている。かなり。

度合いがわからない。

どこまで甘えていていいのかわからないので、

たまに甘えすぎかしらときいても、もちろん過ぎているなんて言われない。

から、いつかこう、耐えかねてどっかーんとなるかもしれない。

そしてたまにそういう、愛想を尽かされる夢を見る。

 

昨日はスーツだった。スーツはいいですね。

 

思想(史)について話をしてくれていた時、楽しそうでいいなぁと思った。

彼が彼の好きなこと、興味のあることを

楽しそうに、好きそうに話すのがとても好きだ。

初めて会った時からそう思っている。

 

ご飯をご馳走になり、そのあとロイヤルミルクティまでご馳走になりました。

完全に甘やかされている。猫にマタタビ状態。与えられるまま。ごろごろ。

 

今年の目標は、多分、大人になるだったはずなんだけどなぁ。

 

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サトちゃんが何かアジっていた。

 

引越し先選定も続けている。今度内見に行く。

金曜日は新刊が出る。買えるかな。

痛みについて

 

整理がつくことと痛みがなくなることは別で
時が流れて整理がついたとしても
痛みは残ると思う、と言った。

 

どういうことなの、と言われて、

ほかの言葉を思いつけなかった。

 

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何も感じなくてぐちゃぐちゃ考えなくていい無敵モードになりたい。

幸せも不幸せも

 

ほとんど一日、海を眺めていた。

 

幸せはどれも似通っているが、

不幸せは色とりどりだというようなことを書いた人もいたけれど。

 

往来の人々をぼーっと見ながら、

幸せも実にそれぞれだな、と思った。

それぞれの人の形で、仕方で。

不幸せだってもちろん。

 

いつか、安らぎを得たいと、私だって思う。

分不相応だろうか。たぶん。きっと。

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思わず、誤って望んでしまう。

 

よく通る道に、ハクモクレンの木があって

最近、蕾がだんだん膨らんできている。

朝、その蕾に陽が差しているのを見て、なんて綺麗なんだろうと思う。

 

土曜日にグザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」を見てから

いろいろと考えていたけれど、

結局は"思わず、誤って望んでしまう"ことの痛切さが

しんどいのだと思った。

 

思わず、誤って望んでしまう。というのは私の好きな陰鬱詩人の言葉だけど。

 

少し前に、話す(持っている)語彙の違いについて話をしたことがある。

語彙、あるいは言語、あるいは周波数、あるいは色。

ちょっと違う言葉を話すだけで、どうしようもなく共同体から浮いてしまうこと。

 

理解できない。だけど愛している。

と母親が言うシーンに感動した人が多いようだけど。

そう言いつつ、一方で、役割から解放するという一番重い役割を背負わせようとする。

くせに、なんて、素直ではないから思ってしまう。

 

幼少期、一瞬映る空の色とか

マットレスの縁を指でなぞって、埃が舞い上がるところとか、素敵だった。

 

主人公は果たして彼以外に無関心だったかということについては、

私はそうは思えないんだけどな。

ラスト、母親の煙草を持つ右半身のカットは、主人公の眼差しだし

ああいう哀切な視線の持ち方をする人間が、他者に無関心だとは思いたくない。

でも一方で、兄弟に拳を向けられた時、傷だらけの拳に留まる視線に含まれるのは

慈悲というよりは一種の冷淡さかもしれないな、とも思う。

そういう冷淡さ(客観性)は、ああいう人たちの一等嫌うものだということを、私もよく知っている。

 

とにかく、主人公が家族という他者に無関心ではなかった、というのは

結局私の願望でしかないのかもなぁ、と思う。

 

主人公は単に

ミーイズムかつナルシシズムに溺れているどうしようもない人間なのかもしれない。

 

まあでも、彼は彼の仕方でしか生きていけないのだろうし

彼以外だって、今更、ああやってしか生きていけないだろうから。

どうしようもない隔絶があるのに、

それでも、思わず、誤って望んでしまうのだなぁと思った。

それが誤りなのかはわからないけれど、理解を、愛情を、許しを、受容を。

お互いがお互いに。

 

だって、そうせざるを得ないほど、やっぱり人は寂しいものだよな

ということも思う。

でも、最終的に、自分の寂しさは自分で引き受けるしかないのだということを思う。

 

この映画とは何の関係もない映画だけど

ショーン・ペンが「寂しさと寂しさは相性が悪い」と言っていた。

これも、その側面を描いたものだろうなと思う。

 

だけど、ドランは、それらを善的に描いていて

私は、理解はできるけれど、まだ納得できないでいる。

これは全く、個人的な思いによってですが。

 

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今朝メールを送った後で、そういうことじゃなかったのかもなと思った。

何も言えないのなら、何も言おうとしない方がいいのではないかとも思うから

変なことを言うくらいなら

返さない方が良かったのかもしれないな、とちょっと後悔したけど。

だけどやっぱり私は卑小な人間だから、

世界がどれだけ正しくても、世界の側を傷つけようとも

そんなことはどうでもよくて、なるべく、傷つかないでいてほしいと思う。

 

この映画を見終わったときに、

主人公は殴り返せば良かったのにね、と言っていたけれど。

 

世界の側に立ってきて、それで

やっぱり殴り返したいときが少なくないくらいにはあったのだろうな、

とぼーっとした頭で思った。

けれど、やっぱり私には何も言えない。

 

群像を買おうと思ったけど、なかった。

10歳になるのが怖かったこと

 

人と飲んできた帰りですが。

お酒が好きな(強い?)相手と飲みに行くと、

色々とよい勉強になるなぁ。

 

で、酒のさかなに

どんな大人になりたかったかという話をしたんだけど。

私は、9歳の頃、10歳になるのがすごく怖かった思い出がある。

と言ったら、

じゃあ君は9歳の頃、幸福だったんだね。

(だから、そこに留まっていたくて、10歳になりたくなかったんだろう)

と言われて、そういう視座を持ったことがないよと返しました。

 

9歳。

親が倒れて一年くらい入退院をくりかえしてたときだよ。

 

私は単純に、大人になりたくなくて

その頃の私は

年齢が1桁なことと、2桁になるのとでは

すごく隔たりがある気がしていた。

一度2桁に突入すると、もう戻れないぞという感じ。

 

なぜ大人になりたくなかったのだろう。

責任や役割を回避したかった、というのではなくて

世界をなるたけ新しいままとっておきたかったのだと思う。

 

世界は革ものみたいに、

使い込めば使い込むほど、艶や味が出るもの

とはどうにも信じられなかったのだろうなぁ。

今だってプラスチック製みたいに思う時があるけど。

 

で、

大人になってみてどう?ときかれて

驚くほど何も変わってないよ、というと

そんなことはないでしょ。と言われたけど。

 

驚くほど何も変わってない。

そりゃ、変な知恵は働くようにはなったかもしれないけど

でも変わらず、受け身を取るのは下手だし

コミュ障だし、世界と和解できてないし

ぜいぜい言いながら、日々をやり過ごしてるよ。

 

とまでは、言わなかったけど。

 

しかし、私に

君の話し方って精神科医だかカウンセラーみたいだというのって

ちゃんちゃらおかしいことだ。

 

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ともだちがいない!

群像を買うの忘れた。

 

かっちり

 

その人は君とは違って、

かっちりとした仕方で世界を捉えていると思うよ

という友人の言葉、まさにその通りだと思った。

 

ソリッドな言葉(づかい)で話す人と、

そうじゃない私とで会話をすると疲れる。たぶんお互いに。少なくとも私は。

 

 

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北九州の夕暮れ。

左端に

新幹線が絶え間なく発着していて、ぼーっと見ていた。いいものです。

明日の朝はきちんと起きる。

 

好きということ

 

結局、君はその人しか好きじゃないんだね、と言われたことがあって

そりゃそうだよと思った。

じゃあ、個別具体にその人の何を好きかと問われると

人はあらゆる要素の集合体だから、

その要素を取り出してみることはできるけれども

ではすなわち、それがその人なのかと言われると、うーんという感じになる。

 

斉藤和義の歌に、見えるものを並び立てて好きと歌う曲があって

好きで割と聞くのだけど

結局、その人の顔だって手だって、それがその人に属するから好きなのだ。

端正な顔立ちそのものとか、そういう造形美だけには強烈に惹かれない。

(滋味深い顔は結局物語で解釈だと思ってるので、ここからは除外します。)

オブジェクトを入り口として、人を愛でる能力がないのだろうと思う。

やっぱりどうしたって物語を重視してしまうし

その人がどういうことをどういう言葉でどういう態度で語るのか、または語らないのかということが気になる。

 

古い友人たちには、好きなタイプはブレないよねと言われるけど

だいたい、私が好きだと思う人たちって、言葉(思考)の世界に生きている、そういう人たちなのだろうと思う。不確定で曖昧な世界に生きている人。

 

ということを書き散らしつつ、寒くて布団から出られないでウダウダしている。

 

でもさ、ごちゃごちゃ言っても考えても、好きだから好きなんだ。

結局、誰かを好きということは、言葉を放棄せざるを得ない状況下にいるのと同義なんだろうな。

 

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波に飲まれる堺さん。